ウディ・アレンは映画の力を心底信じている作家だと思う.
ハンナとその姉妹では,
アレン演じるTVプロデューサーが,
マルクス兄弟の映画によって死の恐怖から救われるし,
ボギー!俺も男だも,
映画評論家の主人公が,
幻のボガートとの対話の中で,
もう一度自分を肯定できるようになる物語だ.
この映画のテーマも, 映画の世界にどんなに憧れても, 本物の人間だからこの世界で生きていくしかない, けれども映画があるからこそ生きていけるのだ, ということなのだろう.
テーマの前半部分は, シシリアが, スクリーンから出てきたトム・バクスターと, 彼を演じたギル・シェファードの両方から求愛されて, 結局シェファードを選ぶところで言葉としても語られているが, 後半の, 映画があるから生きていけるという部分は, 言葉はなく, 映像と音楽だけで語られる. すなわち―
シシリアは結局シェファードに置き去りにされて, どうしようもない亭主のところに帰るしかない. まっすぐ家に帰る気になれず, トップ・ハットをかけている映画館に入るのだが, 最初は, さすがの映画好きのシシリアもうつむいている. それでもチーク・トゥ・チークに誘われてスクリーンに目をやると, 現実に疲れた辛そうな表情が, 次第に映画にひき込まれて変化していき, 最後には微笑みすら浮かんでくる.
このシークエンスはため息が出るほど素敵だ. フレッド・アステアを見つめるシシリアの顔に光が当たってくるラストには思わず胸が熱くなる.
このとき,シシリアはトップ・ハットに救われているが,観ているこちらは, この映画,カイロの紫のバラに救われているのだ. 少なくとも観終わったぼくの胸にあるのは, ああ, 映画っていいなあ, こういうものが存在している現実もまんざら捨てたものじゃないな, という想いだ.
もっとも, そう感じるのには, ぼくのトップ・ハットというかアステアの魔力への思い入れも与っているかもしれない.
この映画を初めて観る少し前, 鬱屈した日々を送っていた頃, アステア&ロジャースの映画に出会い, 有頂天時代, 踊らん哉, 艦隊を追って, コンチネンタルなどに, ずいぶん救われていたのだ. 特にトップ・ハットでチーク・トゥ・チークを踊るシーンはいったい何度深夜に見つめたかしれない.
ここから先はもはやカイロの紫のバラからは離れてしまうかもしれないが, ぼくは, 「映画」を「人間が創りだす虚構の世界」と敷衍し, この映画のテーマを, 虚構の世界にどんなに憧れても, 本物の人間だからこの世界で生きて行くしかない, けれども虚構があってこそ生きて行けるのだ, と受け取った.たとえば萩尾望都が繰り返し扱ったテーマと同じものとして.
でもやがておとなになる代価に…魔法や夢を支払った
ものをかくのはだからです
その時だけわたしは子どもにもどれます
奇跡や魔法が使えます
あなたも夢を見るでしょう?
ぼくもまた,現実との折り合いが悪く,映画や音楽や小説に慰められながらなんとか生きているという人間のひとりなので,この映画を愛してやまないのだ.
こう書くと,何か重苦しい映画のような気がしてくるが, ウディ・アレンはこういうテーマをコメディとして提出してくるところが素晴らしい.
映画はもちろん笑いに満ちていて,たとえば, スクリーンの内側と外側で言い合いを始めてしまうところや, トム・バクスターの, キスシーンがフェイドアウトしないの!?といった, 映画の約束事を現実に持ち込もうとするくだりには,にやにやしてしまう. それから,トム・バクスターが売春婦たちをホロッとさせるシーンは大好きだ.
今回, この記事を書くに当たってネットを回ってみて, いちばんぼくの心情に近いと思った感想は次のものだった.
暗闇の中のひそかな慰め 投稿者:蔵丁稚投稿日:2001-08-2700時03分28秒
ウディ・アレンの映画でいちばん好きな映画、 かもしれません。
日常生活ではさえない主婦が、 映画館の暗闇のなかに逃避して、 夢を見る――これって、 まるでオレじゃん、 と思います。 映画を見ているあいだは、 物語のなかに入りこんで(その意味ではこの作品と逆ですが)、 泣いたり笑ったり興奮したりするけれど、 映画館を出ると、 やっぱり元の白っぽい現実に戻っていかなければならない。 そういうのは、 特に若いころは、 しょっちゅうでありました。 これは、 恋人や友達と賑やかに映画を見るのでなく、 ひとりでひっそりと夢に浸るようなひとのための映画ではないでしょうか。
ウディ・アレンの映画では、 「ボギー!俺も男だ」も、 主人公のさえない男ウディが、 映画館の闇のなかで「カサブランカ」のボギーに見惚れながら、 うんうんと小さくうなずいているシーンから始まっていましたね。 あれも我が姿を見ているようでした。
ぼくはある年齢までは,白っぽい現実に戻っていくのがあまりに辛くて,映画を観ること自体から遠ざかっていたほどだ.最近は神経が太くなって平気になったけど….それから,文字通り救われたボギー!俺も男だについては,そのうち感想を書きたいと思っている.(2005/2/25に書いた)
上に引用した文章には心から共感できたけど, 自分の考えを越えていたという点で見て回った甲斐があったなと思わされたのは, あいりさんの次の言葉.
彼女も愛されることを知って、 別の生き方があることも学んだ。 手痛い経験ではあったが。 一抹の切なさが宿る彼女の表情を見ながら、 もう彼女は映画の主人公に憧れるだけの人間じゃない、 そうであって欲しいと思った。
それから, ningyoさんの次の言葉.
ラストのミア・ファローの表情は明らかにそれまでの「映画を見てうっとり」とちがう。 そしてそれからの彼女を応援してしまう。 彼女はたとえ現実に裏切られても、 それまでの誰にも愛されず、 自分で行動を起こすことを怖がっていた人間ではなく虚像であろうとすばらしい男性に心から愛され、 でも自分は虚像としては生きられないと言ったのだから。
そして,高橋久美さんの次の言葉.
彼女が全てを失った後、愛されることだけを願っていたシシリアは、映画を愛することを知ったのだ。今までも、決して映画を愛していなかったわけではないのだろう。ただそれは、映画を逃げ場所として大事にしていたにすぎない。それは映画への愛と呼ぶよりも、現実逃避の道具に映画を利用していたと考えられる。最後にシシリアが映画を愛したことで、私たちはこの作品に希望があることを知る。そして映画が終わって、いつもと同じようでちがう現実にシシリアが還っていくように、私たちもまた日々生まれ行く現実に還っていく。
ぼくは,結局のところ,映画なり虚構の世界なりを, 現実逃避的に捉えていて,アウフヘーベン的な発想はまったくなかった. なるほど….トップ・ハットを観終わって映画館を出てからのシシリアという視点があったんだ.これはよく考えてみなくちゃ.だけど,そういう視点を教えてくれた3人ともが女性だというのは偶然なのだろうか….
[2005/5/9 追記]
下記に引用する,duprejacquelineさんの文章は,シシリアが成長したというより,もともと強い精神の持ち主なんだと教えてくれているようだ.
僅かに微笑んだ彼女の口唇からは、それでも映画は愛しうるもの、愛せる対象であることを信じられる、「映画があれば生きて行ける!」 そんな希望の声が聞こえてきそうです。このようなセシリアを現実逃避というでしょうか?私は違うと思うんです。旦那様も浮気性の甲斐性なし、仕事では怒られてばかりだった上にあっさり首にされるという厳しい現実を潜ってきた上に、心の支えだった映画の哀しい本質まで気付かざるを得なかったダブル・パンチを貰っても、それでも夢を見続けられる不器用なりで健気で一途なある種の精神的な強さを、映画に憧れを抱き続けることで彼女自身であり続けられる存在の強さを、私はセシリアに見出せると信じられるし、心から応援してあげたくなるんです。その本質が儚い夢であったとしても、映画は映画で彼女を暗闇の中で包んであげることができるし、彼女は彼女でそういった暖かくもしなやかな愛情で映画を思うことができる、この最高に幸せな関係を思うだけで、ああもう、涙が出てきます。
それにしても,シシリア役のミア・ファローはめちゃくちゃうまい.この映画の魅力の相当部分は彼女に負っているのは間違いない.
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あいり: 2005-01-30(日) 09:46:59
初めまして。
トラックバックありがとうございました。
こちらに伺ったら、なんと私の稚拙な文章が。。
穴があったら入りたいけど、太り過ぎで入れません;スミマセン
丁寧に論理的に感想(批評?)を書いてらして素晴らしいブログですね。
映画を見る目に愛情がこもっていて。
一つ一つ拝見しました。
『カイロの紫のバラ』は映画ファンなら誰もが共鳴できる映画だと思います。
私にとって映画は何だろう?と改めて考えてしまいました。
しいて言えば”心の旅”でしょうか。(笑)
ところで、『幕末太陽伝』は当時は酷評されていたような気がするのですが、猛烈に見たくなりました。
サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだあ~♪
夢のような時代でしたね。(笑)
この次はどの映画の感想を書かれるのか楽しみにしております。
プレッシャーになりましたらごめんなさい;
私もhorusoさまを見習ってじっくり丁寧に感想を書こうと思います。