こどもはみんなとてつもない創造力を持っていて,
思いがけない発想でおもしろくてたまらないものを作り出すことは,
子育て中,あるいは子育てをした人なら誰でも知っている.
本当はどんな大人でもかつてそのようなこどもだったはずだから,
別に子育て経験ありの人に限定しなくてもいいようなものだが,
みんなこどもの頃のことなどすっかり忘れてしまっているはずだ.
ぼくにもつい先日7歳になったばかりの息子が一人いて, 彼が描いたり作ったりするものに驚かされるのは日常茶飯事だ. しかし, ぼくの場合, 彼の工作につきあっていると, おもしろいことはおもしろいのだが, 長くなるとときどき退屈してしまう. この映画もまったく同様で, とてもおもしろかったのだが, ときどき退屈だった.退屈といっても,決して悪い意味ではないが, 図工の時間のドキュメンタリーと言えるこの映画の鑑賞には,こどもの遊びに腰を据えてつきあう我慢強さが必要な気がする.
日野第3小学校のこどもたちが過ごす図工の時間と, そこで彼らが作り出すものたちは,ほんとうに掛け値なしに素晴らしいのだが, インタビューから垣間見える, 図工の時間以外のことを考えると,どうにも重い気分になる.
本来, こどもの日常は起きている間中が「トントンギコギコの時間」なのではないか? 図工の時間だけがトントンギコギコではないはずだ.もちろん, 図工の時間には工具を使って大がかりなことができるのだろうが, それ以外の時間も創造力の発現に充ち満ちているはずでは?
「家で何をして遊ぶ?」という問いに, 「勉強づくしだから…」「土日は基本的に勉強している」と3年生の男の子が答えたのに始まって, 「塾が終わるのが9時15分だから…. 望みが叶うならラクになりたい」とか, 「受験勉強に2年間費やしてしまった」とか, 「中学行くと全然遊べなくなっちゃうから…お姉ちゃんも全然遊んでないから」といった言葉がぽんぽん出てきて, こどもたちが置かれている厳しい状況がひしひしと伝わってくる.
冒頭に書いたように,
こどもは誰でも創造的だが,
大人は決してそうではなく,
大人はこどもの黄昏か
という,作者を失念してしまった詩の一節を全面的には認めたくないとしても,
少なくとも創造力に関しては,
ぼくも含めてほとんどの人が成長の過程でスポイルされているように思う.
ぼくの息子はいまでも, ほとんど起きている間中「トントンギコギコの時間」を生きている. まだ低学年だからあるいは当然なのかもしれないが, 知育とか早期教育と名のつくことを一切しなかったことと, テレビやゲーム機器のたぐいを今に至るまで与えていないことも大きく与っているのではないかと自負している.
だが, 『おもしろい本を読むことや創造的な遊びの方が勉強なんかよりよっぽど大切だぜ』という態度でこのまま育て続けてよいものかどうか. 将来, もっと勉強させてくれていたらと息子に詰られやしないだろうか. そんなことも胸中に去来する昨今なので, この映画に描かれているこどもたちのすばらしさよりも, それをスポイルしないようにするにはどうしたらいいのかという想いを強く感じてしまった.
そういう意味で非常に共感した山本眞人氏の言葉を引用する.
この映画を見ていて切ない気持ちにさせられのは、 間もなく小学校を卒業しなくてはならない、 6年生の心のうちの寂しさが伝わってくるところだ。 もう内野先生の図工の時間に出られなくなってしまうこと。 キラキラとした子ども時代から離れていかなくてはならないこと。 この子どもたちは、 どんな中学生、 高校生になっていくのだろうか。 生き生きとした感性を伸ばしていくことができるだろうか。 (中略)この映画は、 製作チームの意図も超えて、 さまざまな問いかけを含んでいると思われる。
もうひとつ, 以下に引用する松家仁之氏の言葉にはうならせられた. あの場面は本当にそうだった!この批評によって, ぼくの中でのこの映画の価値が一格あがったし, 思わず 本作のDVDを注文したくなってしまった. それでもおさまらず, 現在はどうなのか知らないが, 少なくとも引用記事が書かれた2004年には氏が編集長を務めておられた雑誌「考える人」を定期購読する気持ちにすらなっている(笑).
最後に6年生の「卒業制作」が完成し、 その完成した作品の何点かが、 間近に寄ったカメラによってゆっくりと丹念に写される場面があります。 その写されている作品を見ていたら、 訳もわからず涙が出てきたのです。 いや訳もわからない、 のではありません。 小学校6年生のそれぞれの個人のなかにある、 十年以上をかけて育ってきた何ものか、 それはもう引き返すこともない、 そして、 これから壊れたり、 傷つけられたり、 歪められたりする可能性を絶対的には排除できない、 それぞれの子どもたちのたましいのようなものが、 奇蹟的に写っていたからなのです。 それは本当に細い細いピアノ線のようなものの上で片足でバランスをとって揺れているような何かであり、 見ているうちに祈るような気持ちにさせられる何ものかだったのです。
それほどできのよい映画ではないと思うが,映画としての感想を云々する以前に,
中心となる秘密にまつわる論理が納得できないのが痛い.
鑑賞中もずっと首をかしげていて落ち着けなかった.
いちばんのポイントは,ソフィーがイエスの子孫だということだよねえ?
DNA鑑定という言葉が出てくるので, 血脈の証明は科学的になされると考えられているようだ.しかし, それをどうやってやるのか,見当もつかない.
たしかに, ソフィーがあの棺に納められている女性の子孫であることは証明できるだろう. だけど, 棺の女性が本当にマグダラのマリアであることをどうやって証明するのか判らないし, 百歩譲ってそれができたとしても, ソフィーにイエスのDNAが入っていることの証明はどうやるんだ? ソフィーが,ある男性とマグダラのマリアの間に生まれた子供の子孫であることしか言えないのではないのか?
原作を読んでいないし読む気もないが, 原作ではこのあたりの論理展開がきちっとなされているのだろうか.
それとも,ぼくがとんでもない見落としをしていて, 映画もちゃんとつじつまが合ってる?
誰か教えてくれないかなあ….
ピーター・ジャクソン監督は,
オリジナルの1933年版を観て監督を志したと言うだけあり,
オリジナルへのリスペクトが随所に感じられたし,
筋も基本的に同じだが,
違うところもある.
その最たるものは,
コングとアンが心を通わせるところ.
しかし,
これはダメだ.
アンに拒絶されたままだからこそ,
コングの悲劇が際だつのではないか.
そうでないと,
“It was beauty killed the beast.”という言葉が生きない.
本当は1933年版もそうなのだが,この2005年版のような描き方だと, このセリフを呟く監督に向かって, 「おまえが殺したんだろ!」と突っ込みたくなる.
あの最後の台詞は、有名なのだろうけど、「連れてきたお前のせいじゃ!!」と最後の最後にカールにムカついたのは私だけなのだろうか?
やっぱり,そう思うよねえ.
ナオミ・ワッツが,インタビューで, いまどきの観客が悲鳴を上げるだけの女性を観ても面白くないでしょ, という意味のことを言っている.
面白いかどうかはさておき, そういうキャラクター造りがもはやできないというのはよくわかる. そして,そうなのだとしたら,コングとアンが心を通わせるのは必然となる.
ということは, 残念ながら,現代においてキング・コングを忠実にリメイクしようとした時点で, 最初からすでにオリジナルを越えられないことが約束されていたと言えるだろう.
映画は時代と切り離せない芸術なのだということが改めて確認できた気がする.
想像はしていたが,映像があまりにもリアルなのには驚く. 草食恐竜群と人間たちが一緒になって疾走するモッブシーンだけ若干不自然さを感じたが, 他はひたすらリアル.コングとティラノサウルスが戦うシーンなんて, 本物としか見えなかった. この映像を観るだけで映画館に足を運ぶ意味は十分ある.
本作は6歳の息子にとって初めて映画館で鑑賞した映画となった. 1933年版のDVDでキング・コングが大好きになっていたので, そろそろ初体験をさせなくてはと考え,おそるおそる連れて行った. 怖がって途中で出ないといけないかもしれないと考えていたのは杞憂で, コングが出てくるまでは退屈そうだったが(無理もない, 字幕が読めないので映像だけだし,そもそも前半は長すぎたと思う), 後はすごいのめり込みようだった.
途中からもう涙ボロボロの妻を横目に,父の威厳(笑)を保っていたが,
この二つには危うくやられそうになった.
コングがエンパイア・ステート・ビルディングに上って墜ちたのは, アメリカ資本主義に敗れ去る自然の象徴のはずなのに, 1933年版と違って2005年版はそんなこと微塵も感じさせなかったな, と思いながらネットを見ていると,刮目すべき記事が.
だけどね、 NYから十分逃げおおせたにも関わらず、 愛するあんたに夕陽をみせる為、 エンパイア・ステート・ビルディングに上ったお陰で殺されたってゆーのに、 別の男の胸に自ら飛び込むってどういうことよ?
コングは本作ではアンに夕陽を見せるために上ったのか! 言われてみればそのとおり.ちつ子さんに感服というか, 自分の間抜けさ加減にあきれるというか….
ようするに,1933年版とは似て非なる物語だったワケね.そう考えれば, 確かにちつ子さんが上記引用の後で書かれているとおり, オリジナルと違い,アンと人間の男との恋愛感情はいらない,あるいはうまく描けていないな.
ところで,ちつ子さんのエッセイ,まだ斜め読みだけど, どれも読み応えがあって必読と言える.
アロハ坊主さんの記事でも,夕陽の件が書かれていた.映画の文法から言っても,気付かされてみれば当然至極で,これを読み取れなかったのはほんと情けないよなー.1933年版のことを忘れて観ていたらまさか見落とさなかったよと自分を慰めたい.(笑)
その解釈を、監督(および脚本家)はゴングが髑髏島でアンと見た美しい夕陽と同じように見える場所がエンパイア・ステート・ビルで、ゴングは二人で一緒に同じ夕陽を見たいがために登ったのだと描いている。
試写会で見た.
なんとなく映画という感じがせず,
テレビドラマのようだった.
テレビを持たず,
ここ10年ぐらいはほとんどテレビドラマを見ていないのにそう言うのは的外れかもしれないが….
映画らしい力のある映像がないのがいちばんの理由だと思うが, それだけでもなさそう.少しネットを調べてみたら,この西谷弘という監督, テレビで鳴らしている人で,映画は初めてらしい.ま, そういうことなのだろう.
ネットで同じような感想を漏らす人がすぐに何人も見つかった. その一例.
TVの2時間ドラマだね。
映画としてはちょっと物足りない。
この映画には, 源氏鶏太原作を中心とした東宝サラリーマン喜劇と通底したものを感じる.シチュエーションはまるで異質かもしれないが,観客に与える効果において似通ったものがあるのではないか.
もっとも, ぼくはそれらの映画を当然リアルタイムで観ておらず, そのうちのほんのわずかを後年テレビで観たにすぎない. クレージーキャッツ物は丹念に観たが, あれらは鬼子と言うべきで, 東宝サラリーマン喜劇の正統とは決して言えないだろう.
ただ, 源氏鶏太の諸作については, おばが集めていたおかげで, 小学生の頃かなり読んでどれも好きだったので, 雰囲気は過たずつかんでいると思う.
一体に, 邦画というと,その始まりの頃に関して, 浅草六区だの, 丁稚・奉公人の娯楽だのといった連想がなぜか働く. 字幕をトレースできないような階級の人々が明日への活力を得ていたという, 当たっているかどうかもわからない, ほとんど偏見的な思いこみがぼくにはあり, その意味からは, 東宝サラリーマン喜劇こそ邦画の本流ではないかと考えている. この映画に,その遠いこだまを聞き取るのは, 配給が東宝だからという牽強付会ではないと思う.
というのも, 映画を見終わったときに, なにか元気をもらった感じがし, 自分が「改革」の余地がある仕事を持っていることに感謝する気持ちにさせられるからだ.
まさに,東宝サラリーマン喜劇ではないか.
もっとも,こうした映画は東宝サラリーマン喜劇に限らず,昔の邦画にはよくあったタイプかもしれない.
ネットで人の感想を読むと自分の立ち位置がよくわかってとても面白いが, そういう意味では, まるで異質な方の感想がためになる. たとえば, 下記に引用する,たにぐちまさひろ氏の感想を読むと, 氏が社会派であるというぼくの認識を再確認するとともに, オレって本当に自分のことしか考えていないエゴイストだなあと痛感させられる.
そして、この映画の中で気付く一番大切なこと。
官が悪い、民が悪いと足の引っ張り合いをするのではなく、長所も短所も受け入れながら、一緒になっていいものを創り上げようとする気持ち
なんだということ。
たにぐち氏の感想へのトラックバックから, どうもテレビドラマだなあという気持ちを的確に敷衍してくれているYin Yan氏のレビューを見つけた.
2時間11分かけて面白いテレビドラマのダイジェスト版を観た気分である。
言い得て妙.このレビューは引用した部分以外の記述も実に素晴らしく,必読だ.
もうひとつ,アロハ坊主さんの赤VS青という視点はとても面白く,ためになった.野村のネクタイの色なんて全然見てなかった!
アシモフ原作の,
人間になりたいロボットの200年にわたる物語.
観終わったとき, 原作より遙かに落ちると感じ, 比べたくなった. さっそくコンプリート・ロボットを注文し, 四半世紀ぶりにバイセンテニアル・マンを読んでみた. すると残念なことに, 小説の方も記憶ほどの傑作ではなかった. ストーリーテラーとしてのアシモフの面目躍如たる作品で, よくできたエンタテインメントであることは間違いない. だが,その範疇を越え, 自由とは何か, 人間とは何かというテーマを語る思弁小説のように記憶していたが, そうではなかった.
それでも, 映画の方が落ちるという判断は動かなかった.
まず, 原作はSFだが, 映画はSFではない. だからいけない, とは普通はならないが, アシモフのロボットものはどうしてもSFであって欲しい.
どこがSFではないかというと, 一応は紹介される三原則へのこだわりが見えないところだ. 端々にそのことが窺えるが, 顕著に表れるのは, ガラテアがポーシャと生命維持装置らしきものとの接続を外すラストだ. おそらくは即座の死を意味するその行為よりも, 外さないことの方がより深い意味でポーシャを殺すことだと, ガラテアが判断しない限りあり得ないことだ. ロボットがそこまで進化したと観客に解釈させるなら, そのための伏線なり説明なりが必要だろう. 同様に, アンドリューが自らを死ぬように改造することがなぜ第3原則に反しないかについても説明がいる(原作では一応説明されている).このあたりのこだわりがSFをSFたらしめるのだから.
世界裁判所がついにアンドリューのことを200歳の人間だと宣言する直前にアンドリューは機能を停止してしまう. それを見たガラテアが, 間に合えばよかったのにという意味の発言をするのに対して, ポーシャが必要なかったのでしょうと答えるのはもっと解せない. それはないだろう. なぜなら, その宣言を聞くことこそが, アンドリューの考える, 人間とは何かということに直結しているのだから.
人間とは何か. Man is mortal.と思えるかもしれないが, 実はそうではない. あきらかに, アンドリューにとって, 人間とは(すべての)人間によって人間であると認められたもの, なのである. この定義は循環しているので, たとえば, アダムは人間であるという条件を足さなければ機能しないが.
もちろん, 人間が,あるものを人間であると認めるための必要条件に, 滅ぶべき存在であることが含まれるということだろうが, それは, 滅ぶべき存在であることが人間であることの必要条件だというのとは違う. もしそれでよいのなら, アンドリューは何も法廷闘争を起こさなくてもよいのだ.ポーシャと愛しあえていることに満足して静かに暮らせばよい.
ポーシャとアンドリューとの恋愛を加えるところが, 映画としての成立にはほぼ必須と思えるものの, やはり物語の求心性を失わせているのは否めない. アンドリューがmortalであることを選ぶ理由にも, 愛する人の死のあとに続く永遠からの逃避というニュアンスが生じてきてしまう気がする.
それに,肝心のセンチメンタリズムも減じていると思う. アンドリューが今際の際に「リトル・ミス…」と呟く原作のラストの方が, 胸に迫るのはぼくだけではないだろう. おそらく100年以上前に亡くなっているリトル・ミスへの愛情が伝わってきて切ない.
原作にある, アンドリューが自らの自由を法廷で認めさせるくだりがどうして映画にはないのだろう. 「自由という概念を把握しその状態を欲するほど進化した頭脳をもつものに対して自由を拒否する権利はない」という判決は優れてアメリカ的だと思う. “Give me liberty or give me death!”という, 独立戦争にあたってのパトリック・ヘンリーのスピーチを想い起こさせる.
この原作がアメリカ建国200年を記念して作られたことを鑑みると, 実はこの部分はとても重要なのだが, あれから30年近く経って, 「アメリカの自由」を無邪気に謳いあげることができなくなったのだろうか.
原作を再読して期待はずれだったのは, アンドリューが人間になりたい理由が伝わってこないことだ. 映画では,女性と愛しあいたいからということらしく, それはそれで納得できないが, 原作もさっぱりわからない. 三原則の埒外の存在になりたいというのなら理解できるが, 先に書いた意味での人間, あるいは百歩譲って滅ぶべき存在としての人間になぜなりたいのか…
人間が, 知恵の実だけを食べ, 命の実を食べることを許されなかった存在だとするなら, アンドリューほど高度に発達したロボットこそが, 知恵の実と命の実の両方を食べた存在と言えるのではないだろうか.