アシモフ原作の,
人間になりたいロボットの200年にわたる物語.
観終わったとき, 原作より遙かに落ちると感じ, 比べたくなった. さっそくコンプリート・ロボットを注文し, 四半世紀ぶりにバイセンテニアル・マンを読んでみた. すると残念なことに, 小説の方も記憶ほどの傑作ではなかった. ストーリーテラーとしてのアシモフの面目躍如たる作品で, よくできたエンタテインメントであることは間違いない. だが,その範疇を越え, 自由とは何か, 人間とは何かというテーマを語る思弁小説のように記憶していたが, そうではなかった.
それでも, 映画の方が落ちるという判断は動かなかった.
まず, 原作はSFだが, 映画はSFではない. だからいけない, とは普通はならないが, アシモフのロボットものはどうしてもSFであって欲しい.
どこがSFではないかというと, 一応は紹介される三原則へのこだわりが見えないところだ. 端々にそのことが窺えるが, 顕著に表れるのは, ガラテアがポーシャと生命維持装置らしきものとの接続を外すラストだ. おそらくは即座の死を意味するその行為よりも, 外さないことの方がより深い意味でポーシャを殺すことだと, ガラテアが判断しない限りあり得ないことだ. ロボットがそこまで進化したと観客に解釈させるなら, そのための伏線なり説明なりが必要だろう. 同様に, アンドリューが自らを死ぬように改造することがなぜ第3原則に反しないかについても説明がいる(原作では一応説明されている).このあたりのこだわりがSFをSFたらしめるのだから.
世界裁判所がついにアンドリューのことを200歳の人間だと宣言する直前にアンドリューは機能を停止してしまう. それを見たガラテアが, 間に合えばよかったのにという意味の発言をするのに対して, ポーシャが必要なかったのでしょうと答えるのはもっと解せない. それはないだろう. なぜなら, その宣言を聞くことこそが, アンドリューの考える, 人間とは何かということに直結しているのだから.
人間とは何か. Man is mortal.と思えるかもしれないが, 実はそうではない. あきらかに, アンドリューにとって, 人間とは(すべての)人間によって人間であると認められたもの, なのである. この定義は循環しているので, たとえば, アダムは人間であるという条件を足さなければ機能しないが.
もちろん, 人間が,あるものを人間であると認めるための必要条件に, 滅ぶべき存在であることが含まれるということだろうが, それは, 滅ぶべき存在であることが人間であることの必要条件だというのとは違う. もしそれでよいのなら, アンドリューは何も法廷闘争を起こさなくてもよいのだ.ポーシャと愛しあえていることに満足して静かに暮らせばよい.
ポーシャとアンドリューとの恋愛を加えるところが, 映画としての成立にはほぼ必須と思えるものの, やはり物語の求心性を失わせているのは否めない. アンドリューがmortalであることを選ぶ理由にも, 愛する人の死のあとに続く永遠からの逃避というニュアンスが生じてきてしまう気がする.
それに,肝心のセンチメンタリズムも減じていると思う. アンドリューが今際の際に「リトル・ミス…」と呟く原作のラストの方が, 胸に迫るのはぼくだけではないだろう. おそらく100年以上前に亡くなっているリトル・ミスへの愛情が伝わってきて切ない.
原作にある, アンドリューが自らの自由を法廷で認めさせるくだりがどうして映画にはないのだろう. 「自由という概念を把握しその状態を欲するほど進化した頭脳をもつものに対して自由を拒否する権利はない」という判決は優れてアメリカ的だと思う. “Give me liberty or give me death!”という, 独立戦争にあたってのパトリック・ヘンリーのスピーチを想い起こさせる.
この原作がアメリカ建国200年を記念して作られたことを鑑みると, 実はこの部分はとても重要なのだが, あれから30年近く経って, 「アメリカの自由」を無邪気に謳いあげることができなくなったのだろうか.
原作を再読して期待はずれだったのは, アンドリューが人間になりたい理由が伝わってこないことだ. 映画では,女性と愛しあいたいからということらしく, それはそれで納得できないが, 原作もさっぱりわからない. 三原則の埒外の存在になりたいというのなら理解できるが, 先に書いた意味での人間, あるいは百歩譲って滅ぶべき存在としての人間になぜなりたいのか…
人間が, 知恵の実だけを食べ, 命の実を食べることを許されなかった存在だとするなら, アンドリューほど高度に発達したロボットこそが, 知恵の実と命の実の両方を食べた存在と言えるのではないだろうか.