2005-01-30

カイロの紫のバラ

映画への最高のオマージュ

カイロの紫のバラ ウディ・アレンは映画の力を心底信じている作家だと思う. ハンナとその姉妹では, アレン演じるTVプロデューサーが, マルクス兄弟の映画によって死の恐怖から救われるし, ボギー!俺も男だも, 映画評論家の主人公が, 幻のボガートとの対話の中で, もう一度自分を肯定できるようになる物語だ.

この映画のテーマも, 映画の世界にどんなに憧れても, 本物の人間だからこの世界で生きていくしかない, けれども映画があるからこそ生きていけるのだ, ということなのだろう.

映画があるから生きていける

テーマの前半部分は, シシリアが, スクリーンから出てきたトム・バクスターと, 彼を演じたギル・シェファードの両方から求愛されて, 結局シェファードを選ぶところで言葉としても語られているが, 後半の, 映画があるから生きていけるという部分は, 言葉はなく, 映像と音楽だけで語られる. すなわち―

シシリアは結局シェファードに置き去りにされて, どうしようもない亭主のところに帰るしかない. まっすぐ家に帰る気になれず, トップ・ハットをかけている映画館に入るのだが, 最初は, さすがの映画好きのシシリアもうつむいている. それでもチーク・トゥ・チークに誘われてスクリーンに目をやると, 現実に疲れた辛そうな表情が, 次第に映画にひき込まれて変化していき, 最後には微笑みすら浮かんでくる.

アステアの魔力

このシークエンスはため息が出るほど素敵だ. フレッド・アステアを見つめるシシリアの顔に光が当たってくるラストには思わず胸が熱くなる.

このとき,シシリアはトップ・ハットに救われているが,観ているこちらは, この映画,カイロの紫のバラに救われているのだ. 少なくとも観終わったぼくの胸にあるのは, ああ, 映画っていいなあ, こういうものが存在している現実もまんざら捨てたものじゃないな, という想いだ.

もっとも, そう感じるのには, ぼくのトップ・ハットというかアステアの魔力への思い入れも与っているかもしれない.

この映画を初めて観る少し前, 鬱屈した日々を送っていた頃, アステア&ロジャースの映画に出会い, 有頂天時代踊らん哉艦隊を追ってコンチネンタルなどに, ずいぶん救われていたのだ. 特にトップ・ハットでチーク・トゥ・チークを踊るシーンはいったい何度深夜に見つめたかしれない.

現実と虚構

ここから先はもはやカイロの紫のバラからは離れてしまうかもしれないが, ぼくは, 「映画」を「人間が創りだす虚構の世界」と敷衍し, この映画のテーマを, 虚構の世界にどんなに憧れても, 本物の人間だからこの世界で生きて行くしかない, けれども虚構があってこそ生きて行けるのだ, と受け取った.たとえば萩尾望都が繰り返し扱ったテーマと同じものとして.

でもやがておとなになる代価に…魔法や夢を支払った
ものをかくのはだからです
その時だけわたしは子どもにもどれます
奇跡や魔法が使えます
あなたも夢を見るでしょう?

ぼくもまた,現実との折り合いが悪く,映画や音楽や小説に慰められながらなんとか生きているという人間のひとりなので,この映画を愛してやまないのだ.

上質のコメディ

こう書くと,何か重苦しい映画のような気がしてくるが, ウディ・アレンはこういうテーマをコメディとして提出してくるところが素晴らしい.

映画はもちろん笑いに満ちていて,たとえば, スクリーンの内側と外側で言い合いを始めてしまうところや, トム・バクスターの, キスシーンがフェイドアウトしないの!?といった, 映画の約束事を現実に持ち込もうとするくだりには,にやにやしてしまう. それから,トム・バクスターが売春婦たちをホロッとさせるシーンは大好きだ.

シシリアの成長

今回, この記事を書くに当たってネットを回ってみて, いちばんぼくの心情に近いと思った感想は次のものだった.

暗闇の中のひそかな慰め 投稿者:蔵丁稚投稿日:2001-08-2700時03分28秒

ウディ・アレンの映画でいちばん好きな映画、 かもしれません。
日常生活ではさえない主婦が、 映画館の暗闇のなかに逃避して、 夢を見る――これって、 まるでオレじゃん、 と思います。 映画を見ているあいだは、 物語のなかに入りこんで(その意味ではこの作品と逆ですが)、 泣いたり笑ったり興奮したりするけれど、 映画館を出ると、 やっぱり元の白っぽい現実に戻っていかなければならない。 そういうのは、 特に若いころは、 しょっちゅうでありました。 これは、 恋人や友達と賑やかに映画を見るのでなく、 ひとりでひっそりと夢に浸るようなひとのための映画ではないでしょうか。
ウディ・アレンの映画では、 「ボギー!俺も男だ」も、 主人公のさえない男ウディが、 映画館の闇のなかで「カサブランカ」のボギーに見惚れながら、 うんうんと小さくうなずいているシーンから始まっていましたね。 あれも我が姿を見ているようでした。

ぼくはある年齢までは,白っぽい現実に戻っていくのがあまりに辛くて,映画を観ること自体から遠ざかっていたほどだ.最近は神経が太くなって平気になったけど….それから,文字通り救われたボギー!俺も男だについては,そのうち感想を書きたいと思っている.(2005/2/25に書いた

上に引用した文章には心から共感できたけど, 自分の考えを越えていたという点で見て回った甲斐があったなと思わされたのは, あいりさんの次の言葉.

彼女も愛されることを知って、 別の生き方があることも学んだ。 手痛い経験ではあったが。 一抹の切なさが宿る彼女の表情を見ながら、 もう彼女は映画の主人公に憧れるだけの人間じゃない、 そうであって欲しいと思った。

それから, ningyoさんの次の言葉.

ラストのミア・ファローの表情は明らかにそれまでの「映画を見てうっとり」とちがう。 そしてそれからの彼女を応援してしまう。 彼女はたとえ現実に裏切られても、 それまでの誰にも愛されず、 自分で行動を起こすことを怖がっていた人間ではなく虚像であろうとすばらしい男性に心から愛され、 でも自分は虚像としては生きられないと言ったのだから。

そして,高橋久美さんの次の言葉.

彼女が全てを失った後、愛されることだけを願っていたシシリアは、映画を愛することを知ったのだ。今までも、決して映画を愛していなかったわけではないのだろう。ただそれは、映画を逃げ場所として大事にしていたにすぎない。それは映画への愛と呼ぶよりも、現実逃避の道具に映画を利用していたと考えられる。最後にシシリアが映画を愛したことで、私たちはこの作品に希望があることを知る。そして映画が終わって、いつもと同じようでちがう現実にシシリアが還っていくように、私たちもまた日々生まれ行く現実に還っていく。

ぼくは,結局のところ,映画なり虚構の世界なりを, 現実逃避的に捉えていて,アウフヘーベン的な発想はまったくなかった. なるほど….トップ・ハットを観終わって映画館を出てからのシシリアという視点があったんだ.これはよく考えてみなくちゃ.だけど,そういう視点を教えてくれた3人ともが女性だというのは偶然なのだろうか….

[2005/5/9 追記]
下記に引用する,duprejacquelineさんの文章は,シシリアが成長したというより,もともと強い精神の持ち主なんだと教えてくれているようだ.

僅かに微笑んだ彼女の口唇からは、それでも映画は愛しうるもの、愛せる対象であることを信じられる、「映画があれば生きて行ける!」 そんな希望の声が聞こえてきそうです。このようなセシリアを現実逃避というでしょうか?私は違うと思うんです。旦那様も浮気性の甲斐性なし、仕事では怒られてばかりだった上にあっさり首にされるという厳しい現実を潜ってきた上に、心の支えだった映画の哀しい本質まで気付かざるを得なかったダブル・パンチを貰っても、それでも夢を見続けられる不器用なりで健気で一途なある種の精神的な強さを、映画に憧れを抱き続けることで彼女自身であり続けられる存在の強さを、私はセシリアに見出せると信じられるし、心から応援してあげたくなるんです。その本質が儚い夢であったとしても、映画は映画で彼女を暗闇の中で包んであげることができるし、彼女は彼女でそういった暖かくもしなやかな愛情で映画を思うことができる、この最高に幸せな関係を思うだけで、ああもう、涙が出てきます。

それにしても,シシリア役のミア・ファローはめちゃくちゃうまい.この映画の魅力の相当部分は彼女に負っているのは間違いない.

関連リンク

2005-01-29

デイ・アフター・トゥモロー

父子愛映画でしょ

デイ・アフター・トゥモロー 2枚組特別編 環境問題がテーマだと考えると不満も出てくるのであって, これって, どちらかといえば父子愛がテーマで, それに大スペクタクルがついてくると思えば結構楽しめる出来に仕上がっているんじゃないだろうか.

そう捉えている人はあまり多くないらしく, この記事を書くに当たってネットを探してみたが, ズバリ言い切っているのは以下に引用する文章ぐらいしか見あたらなかった.

「パニック映画」と位置づけるには、 ちょいと無理もあるかな。
父子の絆物語、 といったところじゃないでしょうか。

子供がいると映画の観方変わっちゃうよな

正直, もしもぼくに4歳(鑑賞当時)の息子がいなかったら, この映画の評価はもっと低かった気がする.

いちばん感銘を受けたのは, 大迫力の映像じゃなくて, 主人公の父親とその17歳の息子の関係なのだから. とにかく息子が父親を完全に信頼しているのがすごい. 人間が生きていられないような環境になってしまったニューヨークに, 父が迎えに来ることをこれっぽちも疑っていないのだ. ぼくも成長した息子とああいう関係になりたいとつくづく思ってしまった.

いま, 会いにゆきますもそうだったけど, 独身の時とはあきらかに映画の観方が変わっていると感じる. いや, 本当は子供のあるなしに限った話ではないだろう. 日々の経験すべてが自分というものをかたちづくっているのだから, 映画に対する考え方も日々変わっていって当然なのだ. ただ, 波瀾万丈の人生を送っているわけではないぼくには, 子供を持ったことが, 人生観に影響を及ぼすような数少ない大事件だったことはたしかだ.

とはいうものの, 親子愛のエゴイズムってやっぱりちょっと嫌なものでもあるよなあ. この映画なんて, 子供かわいさに他人を死なせてしまっているもん. あれは相当後味が悪い.

映像の快楽

もちろん,CGに支えられた大迫力の映像には圧倒された. これぞスクリーンで観るべき映画で, どの映画を観てもよいというタダ券が手に入ったから映画館に足を運んだという立場からすると,大正解の映画だった.

小松左京テイスト

ラプソン教授のチームが死んでいくところはなぜか小松左京を連想してしまった. 自分でもよくわからないけど, 復活の日あたりかな. ぼくは, ああいう古典的な科学者像に弱いので, さらにこの映画につける点が甘くなってしまう.

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2005-01-27

モーツァルト: ピアノ協奏曲 / チアーニ

何という録音,何という演奏

モーツァルト: ピアノ協奏曲 / チアーニ ディノ・チアーニ (p)
モーツァルト: ピアノ協奏曲 K466, K491 (DYNAMIC - CDS452)

買ったまま封も切らずに置いてあったチアーニのモーツァルトを聴いてみた. 名曲中の名曲, モーツァルトのピアノ協奏曲第20番と第24番のカップリング. 音が流れだしてすぐに愕然とした. あまりにすごい演奏に? いいや, あまりにひどい録音に.

思わずジャケットを確認したら1970年のライブ・レコーディング. とてもこの時代のものとは思えないような録音だ. まずはマイクが妙に遠い. それなのに観客の咳払いはすごく近く聞こえる. まるで客席で録音したみたいだ. 1,2回バーンと大きなノイズが入るし, まれにテープがよれているような感じの歪みさえある. 最悪なのはピアノの音色がいくぶん金属的なこと. もともとはとてもきれいな音色らしいのに.

だが, しばらく我慢して聴いていると, だんだん音の悪さを忘れてしまっている自分に気づいた. 実にユニークな演奏. カデンツァはごく普通の, モーツァルトが書いたもののはずなのに, 初めて聴くタイプのものに思える. うまいな, と感心していたら, 続くロマンツェには心底魅了されてしまった. どう形容していいのかわからないが, 引きずり込まれるとしか言いようがない. 24番でも, テンポの遅い部分や弱音が抜群によい.

20番と24番は, 内田光子, バレンボイム, ハスキル, ビルソン, シュミット, ワルター, カーゾン, マリナー, アンダ, カサドシュ, ハンあたりのCDを持っていて, 内田光子とアンダのものがなかでも気に入っていたのだが, これはことによるといちばん好きな演奏になってしまったかも….

このピアニストは初めて聴いたが, まったく驚かされた. さっそくボックス2種(ディノ・チアーニ トリビュートディノ・チアーニ・コレクション)を注文. 届くのが楽しみだ. だって,ショパンのエチュードのこんな感想を読んでしまったら, 期待もいや増すばかりだ.

エチュードの僕の愛聴は、コルトー、ヴィルサラーゼ、ロルティ。 それぞれに難曲に真摯に対峙していて、どれも爽快感に溢れている。

だが、本当に、圧倒的に素晴らしかったのが、ディノ・チアーニだった。 アシュケナージほどの技巧の冴えがあるわけではないのだが、 とにかくファンタジーに満ちている。

三度で滑らかに上昇していくさまは、まさに音が天に昇っていくようだし、 しなやかに下降してくるさまは、水面に光きらめく清流を感じさせる。

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2005-01-26

恋愛寫眞 もうひとつの物語

映画にしたらどうだろう?

恋愛写真―もうひとつの物語 ぼくは未見だが,同名の映画とは相当違う話のようだ. だけど,この本こそ映画にしたらぴったりじゃない?

大学生活や二人の暮らし,文章で読むと少々薄く感じてしまうが, 映画のワンシーンとしてはちょうどいい感じだろう. ただ一度のキスはもちろん,泳ぐシーンもとてもフォトジェニックだと思うし, なによりクライマックスの個展で次々に写真が現れるところはぜひとも映像で観てみたい.

だけど生身の女優じゃ静流は演じられないか.

どこで会うんだよ

ピュアな恋愛ものは嫌いじゃないのに,読後感はなぜかすっきりしない. どうしてなんだろうとあれこれ考えてみた.

誠人が鈍感で無神経な男だからか. 確かにこの男は, ずっと一緒に過ごしている友人が自分の発する匂いに気づかないと思うほど鈍感だし, みゆきとのデートの後で静流に誕生日を尋ねるような神経の持ち主だ. だが,それはたいして気にならない. もしも女性だったら耐えられないかもしれないが, ぼくは男だし,それも無神経な男の一人だ. 若さと無神経とは分かち難いものなんだ,と肩をすくめてやり過ごすことができる.

もう一度エピローグを読み返してみて,ようやくわかった.

きっとまた会える,このフレーズが気に入らなかったのだ.

誠人が,自分がベッドの上で文庫本を読んでいる写真を見て

それがどれほど脆く,儚い瞬間であったのか,この写真のぼくは気づいていない. 彼女がそばにいることは当たり前で,その日々がいつまでも続くと信じ切っている.

と考えるシーンにはしびれた.まさにそれが人生の本質だと思うからだ. それなのに,この後こんなセリフが続いてしまう.

「思っていれば」と老婦人は言った.
「きっとまた会える.そうでしょ?」

しかも,誠人はみゆきとも次の会話を交わす.

「きっと,いつか―」
「ええ,どこか遠い場所で,きっと,また会えるはずよ」
だから,それまで―

人生にはとりかえしのつかない喪失がたしかにあって, だけど, だからこそ, かけがえがないわけで, その喪失をごまかすのではなく, 抱えながら生きていくもんだろ,とぼくは思う.

いつかどこかでって意味のフレーズ, エピグラフにも現れるので,この作品にとって本質的なんだろうな. ぼくは全然わかっていないんじゃないかという気がしてくる.まるで見当違いの感想を書いているのだろうか.

2005-01-23

バッハ: ゴルトベルク変奏曲 / 武久源造

決定的名盤

武久源造 武久源造 (Cembalo)
バッハ: ゴルトベルク変奏曲 (ALM Records - ALCD1013)

もう少し若い頃なら ゴルトベルクのCDはこれしかいらないと言ってしまったであろう, 驚くべき, 決定的名盤.

ゴルトベルクのCDは他に10種類ほど手元にあるが,このCDに出会うまではEdith Picht-Axenfeldのものを愛聴していた.いまでも, 第8変奏など,部分的に武久の演奏より好きなところもあるが, まず手が伸びなくなってしまった.

自然だが非凡な演奏

まず冒頭のアリアの美しいこと!この慈しみと癒しに満ちた旋律を, 味わう暇もなく快速に弾きとばしてしまう演奏はぼくにはとんでもない. かといって, ただ遅いだけではどうしようもないが, 武久のはゆったりと味わい深く,人生のように流れる.

続く第1変奏の入り方が絶妙. ぼくは, これまでどの演奏を聴いても, 少しうるさいと感じてしまうのが常だった. 第1変奏は勢いがあるので, アリアが優しく消えていった直後だと, どうしてもそんな風に思えてしまう. グールドの新盤は論外だが, 他の演奏でもいつもかすかな不快感があった.

ところが, 武久のは, 「そっと」と形容すると言い過ぎだが, ごく穏やかに滑り込んでくるようななめらかさで入ってきて, これから,もう一度ここに戻ってくるまでの, 喜びに満ちた長い旅が始まるのだという気持ちにさせてくれる.

もうひとつ,この演奏ではチェンバロの音色がたとえようもなく美しく, いつまでも聴いていたくなる. この音の良さについては興味深いことを書いているページがあった.

あるチェンバロの演奏会をきっかけにして、チェンバロの音が苦手になりました。また、あるレコードを聴いて、バッハのゴールトベルク変奏曲が苦手になりました。その苦手意識を追いやってくれたのが、武久源造のCDでした。

バッハの音楽があるから生きていける

それにしても, バッハ, バッハ, バッハ. この奇跡のような曲について,何を書くこともできないので, ライナーノーツの武久の言葉を引用する.

録音を終えたとき, このような素晴らしい曲がこの世に存在し, それを, ある緊張感を持って体験し得たことに対する, 言い尽くし得ない感謝が心に満ち溢れていた. ただ, 恵によって私の中に起こされた愛が, この偉大な作品にほのかな良い香を添えるものであって欲しいと願うのみである.

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