2006-10-06

バッハ: 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ / ラウテンバッハー

ラウテンバッハーの無伴奏

バッハ: 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ / ラウテンバッハー スザーネ・ラウテンバッハー (Vo)
バッハ: 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ (Vox, SVBX526)

バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータは, ぼくがもっとも愛してやまない曲集のひとつだ. 当然のことながら世の中には同じ想いの人が多いのだろう, コンサートやCDで数多く取り上げられるので,名演もあまた存在する. ぼく自身,コンサートを含め,これまでにどれだけの演奏に触れたか数え切れないが, 現在手元に残っている10種類ほどのCDはどれも素晴らしく, 2位以下を決めるのは容易ではない.だが,1位についてはずっと迷う必要がなかった. 15年前に出会って以来,前橋汀子の演奏が変わらずその地位を占めてきた. ぼくにとってこれを超える演奏に出会うことはついにないのではないかと思い始めていた.

そんなとき,このCD-Rを入手した.

至福の演奏

ラウテンバッハーの無伴奏は, 64年に録音されたものをすでに持っていて, これもいい演奏ではあるものの, 前橋を超えるほどには気に入らなかったので, この73,74年版にもそれほど大きな期待をしていなかった. ところが, 最初にかけたソナタ第1番の冒頭, 少し聴いただけで, 「これは…」と思わされた. その想いは音楽が進むほどに強くなってゆく. 雷に打たれたような感動というのではない. 聴き進むほどにじわじわと心にひろがってゆくような感動と言ったらいいだろうか. 月並みな表現だが, 至福の境地に誘われるような心持ちで, 気がつけばうっすらと涙さえ浮かんでいた.

ぼくは,一部で高く評価されているペトレの演奏はあまり好きではなく, それよりはシゲティ―前橋の系譜に連なるような演奏が好みだ. 精神的な演奏という言葉はあまり使いたくはないのだが, とはいえ,深いと形容せざるを得ない演奏は世の中にあるように思う.

ラウテンバッハーには,シゲティや前橋のようなゴツゴツした感じはなく, もっと自然なのだが,それでいて何とも言えない深みを感じさせる.

人様の言葉を借りよう

加藤幸弘さんの掲示板でのKUROさんという方の評.

なんと言えばいいのでしょうか。 これほどの気高い演奏はこれから先も出会うことはもうないかもしれません。 それほどに感銘をうける内容でした。 ただし、 一度や二度聴いただけでは、 なかなか全てを理解できるものではない所がちょっと厄介ですが・・・まさに大人の音楽が間違いなくそこに存在しているのだという実感を与えてくれる演奏だと思います。

2006/10/6現在で,280種!ものCDをお持ちのT.S.さんの評. この方の賛辞はぼくのものなんかと違って権威がある.

正統路線を極めたかのような堂々たる演奏! 何の迷いも感じられないひたむきな表現に,そして淀みのないテンポ感, 静かな推進感に心奪われます。 深々とした重音の響きの美しさ, 一つ一つの音のつながりの美しさ, これはもう芸術的「技」としか言いようがありません。 技術的にはそれほどキレの良い演奏ではありません。 正直言って「あれっ?」という第一印象でした。 しかし, 聴き進むにつれてそんな印象はどこかに吹っ飛んでしまいました。 なぜそんな不満を持ったのか,今となってはもう思い出せません。 味わい深い好演!

めぐり逢えて本当によかった

まだこのCD-Rを入手して半年も経っていないが, さて, 今後, これよりも気に入る演奏に出会うという幸福がぼくの人生に待っているのかどうか. それは望みすぎのような気がしている.

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2006-08-07

トントンギコギコ図工の時間

おもしろくて退屈

トントンギコギコ図工の時間 こどもはみんなとてつもない創造力を持っていて, 思いがけない発想でおもしろくてたまらないものを作り出すことは, 子育て中,あるいは子育てをした人なら誰でも知っている. 本当はどんな大人でもかつてそのようなこどもだったはずだから, 別に子育て経験ありの人に限定しなくてもいいようなものだが, みんなこどもの頃のことなどすっかり忘れてしまっているはずだ.

ぼくにもつい先日7歳になったばかりの息子が一人いて, 彼が描いたり作ったりするものに驚かされるのは日常茶飯事だ. しかし, ぼくの場合, 彼の工作につきあっていると, おもしろいことはおもしろいのだが, 長くなるとときどき退屈してしまう. この映画もまったく同様で, とてもおもしろかったのだが, ときどき退屈だった.退屈といっても,決して悪い意味ではないが, 図工の時間のドキュメンタリーと言えるこの映画の鑑賞には,こどもの遊びに腰を据えてつきあう我慢強さが必要な気がする.

図工の時間の外は?

日野第3小学校のこどもたちが過ごす図工の時間と, そこで彼らが作り出すものたちは,ほんとうに掛け値なしに素晴らしいのだが, インタビューから垣間見える, 図工の時間以外のことを考えると,どうにも重い気分になる.

本来, こどもの日常は起きている間中が「トントンギコギコの時間」なのではないか? 図工の時間だけがトントンギコギコではないはずだ.もちろん, 図工の時間には工具を使って大がかりなことができるのだろうが, それ以外の時間も創造力の発現に充ち満ちているはずでは?

「家で何をして遊ぶ?」という問いに, 「勉強づくしだから…」「土日は基本的に勉強している」と3年生の男の子が答えたのに始まって, 「塾が終わるのが9時15分だから…. 望みが叶うならラクになりたい」とか, 「受験勉強に2年間費やしてしまった」とか, 「中学行くと全然遊べなくなっちゃうから…お姉ちゃんも全然遊んでないから」といった言葉がぽんぽん出てきて, こどもたちが置かれている厳しい状況がひしひしと伝わってくる.

どう育てるべきか…

冒頭に書いたように, こどもは誰でも創造的だが, 大人は決してそうではなく, 大人はこどもの黄昏か という,作者を失念してしまった詩の一節を全面的には認めたくないとしても, 少なくとも創造力に関しては, ぼくも含めてほとんどの人が成長の過程でスポイルされているように思う.

ぼくの息子はいまでも, ほとんど起きている間中「トントンギコギコの時間」を生きている. まだ低学年だからあるいは当然なのかもしれないが, 知育とか早期教育と名のつくことを一切しなかったことと, テレビやゲーム機器のたぐいを今に至るまで与えていないことも大きく与っているのではないかと自負している.

だが, 『おもしろい本を読むことや創造的な遊びの方が勉強なんかよりよっぽど大切だぜ』という態度でこのまま育て続けてよいものかどうか. 将来, もっと勉強させてくれていたらと息子に詰られやしないだろうか. そんなことも胸中に去来する昨今なので, この映画に描かれているこどもたちのすばらしさよりも, それをスポイルしないようにするにはどうしたらいいのかという想いを強く感じてしまった.

そういう意味で非常に共感した山本眞人氏の言葉を引用する.

この映画を見ていて切ない気持ちにさせられのは、 間もなく小学校を卒業しなくてはならない、 6年生の心のうちの寂しさが伝わってくるところだ。 もう内野先生の図工の時間に出られなくなってしまうこと。 キラキラとした子ども時代から離れていかなくてはならないこと。 この子どもたちは、 どんな中学生、 高校生になっていくのだろうか。 生き生きとした感性を伸ばしていくことができるだろうか。 (中略)この映画は、 製作チームの意図も超えて、 さまざまな問いかけを含んでいると思われる。

もうひとつ, 以下に引用する松家仁之氏の言葉にはうならせられた. あの場面は本当にそうだった!この批評によって, ぼくの中でのこの映画の価値が一格あがったし, 思わず 本作のDVDを注文したくなってしまった. それでもおさまらず, 現在はどうなのか知らないが, 少なくとも引用記事が書かれた2004年には氏が編集長を務めておられた雑誌「考える人」を定期購読する気持ちにすらなっている(笑).

最後に6年生の「卒業制作」が完成し、 その完成した作品の何点かが、 間近に寄ったカメラによってゆっくりと丹念に写される場面があります。 その写されている作品を見ていたら、 訳もわからず涙が出てきたのです。 いや訳もわからない、 のではありません。 小学校6年生のそれぞれの個人のなかにある、 十年以上をかけて育ってきた何ものか、 それはもう引き返すこともない、 そして、 これから壊れたり、 傷つけられたり、 歪められたりする可能性を絶対的には排除できない、 それぞれの子どもたちのたましいのようなものが、 奇蹟的に写っていたからなのです。 それは本当に細い細いピアノ線のようなものの上で片足でバランスをとって揺れているような何かであり、 見ているうちに祈るような気持ちにさせられる何ものかだったのです。

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2006-06-03

ダ・ヴィンチ・コード

まったくわからん

最後の晩餐 それほどできのよい映画ではないと思うが,映画としての感想を云々する以前に, 中心となる秘密にまつわる論理が納得できないのが痛い. 鑑賞中もずっと首をかしげていて落ち着けなかった.

いちばんのポイントは,ソフィーがイエスの子孫だということだよねえ?

DNA鑑定という言葉が出てくるので, 血脈の証明は科学的になされると考えられているようだ.しかし, それをどうやってやるのか,見当もつかない.

たしかに, ソフィーがあの棺に納められている女性の子孫であることは証明できるだろう. だけど, 棺の女性が本当にマグダラのマリアであることをどうやって証明するのか判らないし, 百歩譲ってそれができたとしても, ソフィーにイエスのDNAが入っていることの証明はどうやるんだ? ソフィーが,ある男性とマグダラのマリアの間に生まれた子供の子孫であることしか言えないのではないのか?

原作を読んでいないし読む気もないが, 原作ではこのあたりの論理展開がきちっとなされているのだろうか.

それとも,ぼくがとんでもない見落としをしていて, 映画もちゃんとつじつまが合ってる?

誰か教えてくれないかなあ….

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2006-03-11

キング・コング

オリジナルとかけはなれた方がよかったかも

キング・コング ピーター・ジャクソン監督は, オリジナルの1933年版を観て監督を志したと言うだけあり, オリジナルへのリスペクトが随所に感じられたし, 筋も基本的に同じだが, 違うところもある. その最たるものは, コングとアンが心を通わせるところ. しかし, これはダメだ. アンに拒絶されたままだからこそ, コングの悲劇が際だつのではないか. そうでないと, “It was beauty killed the beast.”という言葉が生きない.

本当は1933年版もそうなのだが,この2005年版のような描き方だと, このセリフを呟く監督に向かって, 「おまえが殺したんだろ!」と突っ込みたくなる.

あの最後の台詞は、有名なのだろうけど、「連れてきたお前のせいじゃ!!」と最後の最後にカールにムカついたのは私だけなのだろうか?

やっぱり,そう思うよねえ.

ナオミ・ワッツが,インタビューで, いまどきの観客が悲鳴を上げるだけの女性を観ても面白くないでしょ, という意味のことを言っている.

面白いかどうかはさておき, そういうキャラクター造りがもはやできないというのはよくわかる. そして,そうなのだとしたら,コングとアンが心を通わせるのは必然となる.

ということは, 残念ながら,現代においてキング・コングを忠実にリメイクしようとした時点で, 最初からすでにオリジナルを越えられないことが約束されていたと言えるだろう.

映画は時代と切り離せない芸術なのだということが改めて確認できた気がする.

CG技術もここまで来たか

想像はしていたが,映像があまりにもリアルなのには驚く. 草食恐竜群と人間たちが一緒になって疾走するモッブシーンだけ若干不自然さを感じたが, 他はひたすらリアル.コングとティラノサウルスが戦うシーンなんて, 本物としか見えなかった. この映像を観るだけで映画館に足を運ぶ意味は十分ある.

個人的に記念すべき映画

本作は6歳の息子にとって初めて映画館で鑑賞した映画となった. 1933年版のDVDでキング・コングが大好きになっていたので, そろそろ初体験をさせなくてはと考え,おそるおそる連れて行った. 怖がって途中で出ないといけないかもしれないと考えていたのは杞憂で, コングが出てくるまでは退屈そうだったが(無理もない, 字幕が読めないので映像だけだし,そもそも前半は長すぎたと思う), 後はすごいのめり込みようだった.

途中からもう涙ボロボロの妻を横目に,父の威厳(笑)を保っていたが,

  1. コングがクロロフォルムにやられて昏睡する直前, アンに向かって手をさしのべるときに見せる物問いたげな瞳.
  2. エンパイア・ステート・ビルディング上で,かなり傷ついたコングが, 最後の力を振り絞って飛行機を威嚇する,悲鳴のような雄叫び.

この二つには危うくやられそうになった.

追記

コングがエンパイア・ステート・ビルディングに上って墜ちたのは, アメリカ資本主義に敗れ去る自然の象徴のはずなのに, 1933年版と違って2005年版はそんなこと微塵も感じさせなかったな, と思いながらネットを見ていると,刮目すべき記事が.

だけどね、 NYから十分逃げおおせたにも関わらず、 愛するあんたに夕陽をみせる為、 エンパイア・ステート・ビルディングに上ったお陰で殺されたってゆーのに、 別の男の胸に自ら飛び込むってどういうことよ?

コングは本作ではアンに夕陽を見せるために上ったのか! 言われてみればそのとおり.ちつ子さんに感服というか, 自分の間抜けさ加減にあきれるというか….

ようするに,1933年版とは似て非なる物語だったワケね.そう考えれば, 確かにちつ子さんが上記引用の後で書かれているとおり, オリジナルと違い,アンと人間の男との恋愛感情はいらない,あるいはうまく描けていないな.

ところで,ちつ子さんのエッセイ,まだ斜め読みだけど, どれも読み応えがあって必読と言える.

[2006/3/12 追記]

アロハ坊主さんの記事でも,夕陽の件が書かれていた.映画の文法から言っても,気付かされてみれば当然至極で,これを読み取れなかったのはほんと情けないよなー.1933年版のことを忘れて観ていたらまさか見落とさなかったよと自分を慰めたい.(笑)

その解釈を、監督(および脚本家)はゴングが髑髏島でアンと見た美しい夕陽と同じように見える場所がエンパイア・ステート・ビルで、ゴングは二人で一緒に同じ夕陽を見たいがために登ったのだと描いている。

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2006-03-08

大人

最近,車の中ではほとんどコレ

大人(ADULT) 東京事変
大人(ADULT) (東芝EMI - TOCT25884)

テレビを一切見ずにあまり世の流れに関係のない職場にこもっていると, こちらから興味を持たない限り,世間で起こっていることが全然わからなくなる. だから,しばらく前にふとしたことから耳にした椎名林檎は, その名前すら知らなかった. ここ15年ほどはいわゆるclassical music以外の音楽はほとんど聴いていないのだが, それでも少しは他の音楽にも接することがあり, その中では間違いなく最大の収穫. ピンク・フロイドあたりのプログレでとまっていたロック受容を後悔させられたほどだ.

歴史的名盤

だから, 無罪モラトリアムも本盤もほぼ同時に接したという, 同時代的な思い入れのない, ある意味公平な立場で言わせてもらうと, 本盤は椎名林檎の(これまでの)最高傑作だと思う. アルバム中, どこを切っても最高としか言いようがないが, しいて一カ所だけ挙げるなら, 雪国ラストから歌舞伎へつながる部分のドラムス. もう鳥肌もの.

もちろん1stアルバムもすごいけど

ネットを見て回って,本盤に比べて無罪モラトリアムがいかによかったかという声が多いのに驚くと同時に, 吉田秀和氏の文章を思い出させられた.

多くの芸術家が, その第一作で決定的な声価を獲得し, その後は, 人間的にも芸術的にも, より成熟した創作をしたにもかかわらず, いつも, 第一作に及ばない, あるいは第一作のもっていた否応なく人をひきつける魅力にかけるといって非難されたり, おしまれたりしてきた. ゲーテは, 随分あとあとまで, 『ヴェルテル』のような作品をもう二度と書けなくなったといわれ, げっそりしていた. ベートーヴェンは, あのすばらしい『エロイカ』を書き, 第四, 第五, 第六交響曲を発表したあとでさえ, 「第一交響曲のあのみずみずしい自発性を失ってしまって, ただもう難解で晦渋で, わざとらしい作為のめだつ曲ばかり書くようになった. ベートーヴェンよ, 第一交響曲に戻りたまえ」という説教を, くりかえしきかされて, 憤激していた. こういう例は, まだ, いくらも, ひろえるだろう.

だが,バンド名は好きじゃないな

事変という言葉は, 騒乱や(宣戦布告なしの)戦争と無関係に使われる場合もあるだろうが, ぼくが連想するのは満州事変や日支事変だ. おおかたの人もその類の事柄を頭に浮かべるのではないだろうか. ツアーにもダイナマイトの呼称を使ったらしく, 確信犯と思われるが, 「事変」に痛みを感じる人も少なくないことを鑑みれば,挑発的に過ぎる気がする.

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